30代で実家ぐらし、働かず家にいる男の日々

1985年生まれの37歳。働かず、友達付き合いもなし。外へ出るのは散歩か病院の時だけ。一人で読んだり書いたりして過ごしている。noteで日記を公開している→https://goo.gl/Jrkznz

昭和3年生まれの祖父の生涯


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私の母方の祖父は1928(昭和3)年、群馬県桐生市で生まれました。

旧制中学3年か4年の時に、海軍飛行予科練習生(予科練)に入りました。

志望理由は「白いおまんまがいっぱい食えるから」

当時の食糧難を感じさせる話です。

 

上官にはよく殴られたそうです。

以下は祖父のお気に入りの話。何度も話してくれました。

 

山口県の海で、上官に海水を舐めるよう命じられました。

そして「どんな味だ」と尋ねられます。

祖父は「しょっぱい」と答えたそうです。

そうしたら殴られたとのこと。

「しょっぱいとは何だ。海の水は辛いんだ」

と怒鳴られたそうです。

 

「しょっぱい」というのは今でこそ共通語のごとく

日本中で使われていますが、元々は関東方言です。

上官は西日本の人だったので、関東方言に腹を立てたというわけです。

 

***

 

祖父の家には、錨(いかり)のマークが描かれた金属製の器がありました。

米びつに入れられていて、祖母はそれでお米を測っていました。

この器が、祖父が海軍時代に使っていた茶碗だったそうです。

終戦から50年以上も、日本海軍の茶碗が現役だったというわけです。

 

終戦は17歳の頃。

鹿児島県の知覧で迎えたそうです。特攻隊員でした。

零戦に乗って飛行の練習をしていたそうです。

「あと1週間、終戦が遅かったら敵艦に突っ込んでいた」

と語っていました。

 

終戦後はしばらく荒れていたそうです。

 

昭和29年に私の母が生まれていますので、

結婚はその前年ぐらいでしょうか。25歳ですね。

 

桐生の人らしく、織物の会社で働いていました。

詳しいことはわからないのですが、職人的な仕事だったみたいです。

また書道の免許を持っており、自宅で教室も開いていたようです。

 

私は昭和60年生まれですので、年の差は57歳。

老人になってからの祖父しか知りません。

 

酒もタバコも大好きな人でした。

若い頃は女遊びもやって、祖母を困らせたようです。

車を乗り回すのも好きだったようですが、

しょっちゅう違反をするので祖母が禁じたとのことです。

 

***

 

私が中学生の時のことです。

祖父と一緒に歩いていたところ、車道を斜め横断し始めました。

私は「あぶないよ」と言うのですが、祖父は

「(警笛を)鳴らされるまではこちらに権利がある」

と言って悠々と渡りました。

 

良くないことですが、私は祖父のこういう不良っぽいところが好きでした。

歩くスピードが速く、運動部に所属していた私がへばって

「もっとゆっくり行こうよ」と提案するぐらいでした。

老いてもロクに病気もせず、元気でした。

 

***

 

2014年4月、86歳で亡くなりました。

特に大きな病気もなく、突然のことだったので驚きました。

いつものように祖母と一緒にお昼ごはんを食べ、

日課の昼寝に入り、そのまま起きなかったとのことです。

 

病院に運ばれましたが、もう既に亡くなっていたようです。

満足そうな顔だったといいます。

苦しんで亡くなったのではないようです。

 

80過ぎて大した病もなく、介護も受けず、

お腹いっぱいで昼寝に入って、苦しまずに永眠。

いい死に方だと思います。

 

最後の昼食を終えた後、祖母に

「お母さんの料理はいつもうまい。

こんなにうまいものを食べてこられて良かった」

というようなことを言ったそうです。

それまで、こんなことは一度も言わなかったそうです。

別れのあいさつだったのでしょうか。

 

***

 

女、酒、タバコで祖母を困らせたのは良くないですが、

楽しく生きた人という印象を受けます。

基本は真面目で、人からも慕われていたようです。

 

しかし貯金も残さず、菩提寺もなかったことから、

彼の死後、祖母や母は苦労しました。

自分が死んだ後のことをあまり考えてなかったようです。

 

いろいろと困ったところもありますが、

私は彼が祖父であったことを嬉しく思います。

 

***

 

 

↑この本の「ユキ」こと荒木幸雄さんは群馬県桐生市出身です。祖父と出身も年齢も同じ特攻隊員。祖父の生前に「読んでほしい」と渡された思い出の1冊です。


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