昭和3年生まれの祖父の生涯
スポンサードリンク
私の母方の祖父は1928(昭和3)年、群馬県の桐生市で生まれました。
旧制中学3年か4年の時に、海軍飛行予科練習生(予科練)に入りました。
志望理由は「白いおまんまがいっぱい食えるから」。
当時の食糧難を感じさせる話です。
上官にはよく殴られたそうです。
以下は祖父のお気に入りの話。何度も話してくれました。
山口県の海で、上官に海水を舐めるよう命じられました。
そして「どんな味だ」と尋ねられます。
祖父は「しょっぱい」と答えたそうです。
そうしたら殴られたとのこと。
「しょっぱいとは何だ。海の水は辛いんだ」
と怒鳴られたそうです。
「しょっぱい」というのは今でこそ共通語のごとく
日本中で使われていますが、元々は関東方言です。
上官は西日本の人だったので、関東方言に腹を立てたというわけです。
***
祖父の家には、錨(いかり)のマークが描かれた金属製の器がありました。
米びつに入れられていて、祖母はそれでお米を測っていました。
この器が、祖父が海軍時代に使っていた茶碗だったそうです。
終戦から50年以上も、日本海軍の茶碗が現役だったというわけです。
終戦は17歳の頃。
鹿児島県の知覧で迎えたそうです。特攻隊員でした。
零戦に乗って飛行の練習をしていたそうです。
「あと1週間、終戦が遅かったら敵艦に突っ込んでいた」
と語っていました。
終戦後はしばらく荒れていたそうです。
昭和29年に私の母が生まれていますので、
結婚はその前年ぐらいでしょうか。25歳ですね。
桐生の人らしく、織物の会社で働いていました。
詳しいことはわからないのですが、職人的な仕事だったみたいです。
また書道の免許を持っており、自宅で教室も開いていたようです。
私は昭和60年生まれですので、年の差は57歳。
老人になってからの祖父しか知りません。
酒もタバコも大好きな人でした。
若い頃は女遊びもやって、祖母を困らせたようです。
車を乗り回すのも好きだったようですが、
しょっちゅう違反をするので祖母が禁じたとのことです。
***
私が中学生の時のことです。
祖父と一緒に歩いていたところ、車道を斜め横断し始めました。
私は「あぶないよ」と言うのですが、祖父は
「(警笛を)鳴らされるまではこちらに権利がある」
と言って悠々と渡りました。
良くないことですが、私は祖父のこういう不良っぽいところが好きでした。
歩くスピードが速く、運動部に所属していた私がへばって
「もっとゆっくり行こうよ」と提案するぐらいでした。
老いてもロクに病気もせず、元気でした。
***
2014年4月、86歳で亡くなりました。
特に大きな病気もなく、突然のことだったので驚きました。
いつものように祖母と一緒にお昼ごはんを食べ、
日課の昼寝に入り、そのまま起きなかったとのことです。
病院に運ばれましたが、もう既に亡くなっていたようです。
満足そうな顔だったといいます。
苦しんで亡くなったのではないようです。
80過ぎて大した病もなく、介護も受けず、
お腹いっぱいで昼寝に入って、苦しまずに永眠。
いい死に方だと思います。
最後の昼食を終えた後、祖母に
「お母さんの料理はいつもうまい。
こんなにうまいものを食べてこられて良かった」
というようなことを言ったそうです。
それまで、こんなことは一度も言わなかったそうです。
別れのあいさつだったのでしょうか。
***
女、酒、タバコで祖母を困らせたのは良くないですが、
楽しく生きた人という印象を受けます。
基本は真面目で、人からも慕われていたようです。
しかし貯金も残さず、菩提寺もなかったことから、
彼の死後、祖母や母は苦労しました。
自分が死んだ後のことをあまり考えてなかったようです。
いろいろと困ったところもありますが、
私は彼が祖父であったことを嬉しく思います。
***
↑この本の「ユキ」こと荒木幸雄さんは群馬県桐生市出身です。祖父と出身も年齢も同じ特攻隊員。祖父の生前に「読んでほしい」と渡された思い出の1冊です。
スポンサードリンク