みんな社会に参加している社会の一員だ
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ひきこもりやニートの話となると、よく「社会参加」という言葉が出てくる。
「社会参加していない」だの「社会参加が必要」だの。奇妙な言葉だ。我々は皆、生きているだけで社会に参加しているのだから。
誰もが社会の中に生まれる。一人の例外もない。生まれた瞬間から社会の中で生き、そして社会の中で死ぬ。
だから「学校を卒業して社会人になる」なんて言葉はまったくおかしい。これではまるで、学校を出て初めて社会に参加するかのようだ。
小学生だろうが、店で物を買えば消費税を払う。その金で国家が回っている。彼が社会に参加している社会の一員でなくて何であろう。
僕もあなたも、生まれてから死ぬまで、社会の一員でない瞬間は一秒たりともない。
我々はどう生きようとも、社会の中で生きている。つまり社会参加している。社会参加しないことなど不可能。「社会参加」とは「生きる」と同義だ。「社会人」とは「人間」と同義だ。
労働のことは「労働」と言えばいい。労働者のことは「労働者」と呼べばいい。「社会参加」「社会人」などと言い換える必要はない。
また「学生」と「社会人」などという区別も不要だ。そもそも、分けようとしても分けられないではないか。会社に勤めながら在学する者もいる。在学中に事業を起こす者もいる。
多くの学生がアルバイトをしているではないか。正社員の学生は「社会人」で、非正規社員の学生は「学生」なのか? 雇用形態で身分が変わるのか?
日本語における「社会」という言葉は、いったい何なのだろう。何を指しているのだろう。
赤ん坊も、幼児も、学生も、ひきこもりも、寝たきりの方も、お年寄りも、みんな社会に参加している社会の一員だ。
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