30代で実家ぐらし、働かず家にいる男の日々

1985年生まれの37歳。働かず、友達付き合いもなし。外へ出るのは散歩か病院の時だけ。一人で読んだり書いたりして過ごしている。noteで日記を公開している→https://goo.gl/Jrkznz

つらい日々を生き延びる


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毎日漠然と、生きるのがつらいと感じる。この気持ちは、どこから来るのだろう。

 

ひとつには体調不良がある。僕には体調の良い時がほとんどない。

 

体調不良を忘れる瞬間はある。何かに夢中になっている時だ。ということは、ずっと夢中になっていれば、ハッピーになれるわけだ。

 

本当だろうか。夢中というのは「没我の境地」とも言える。没我とは自分を忘れることだ。四六時中、自分を忘れているなんて怖い。

 

僕はいつも自分を意識していたい。何というか、自分が好きなのだ。

 

先日、髪を切った。美容師には「女性のショートカットみたいな柔らかい感じにしてほしい」と頼んだ。そして、そのようにしてもらえた。

 

全体的に丸っこくてかわいい。自分がかわいくなれて嬉しい。それからというもの、鏡をよく見る。そのたびに前髪をいじる。頭頂部から耳にかけて両手でさする。やたらに自撮り写真を撮るようになった。家でも外でも。

 

前髪が目に入って鬱陶しい。でも同時に嬉しい。前髪が気になった時、自分を意識できるからだ。「ああ自分とはぐれていないな、自分と一緒にいるな」と。

 

***

 

「同行二人」という言葉がある。お遍路さんの笠に書いてある。「空海と共に歩いている」という意味だ。空海と一緒に歩けるなんて、とても心強い。

 

阿弥陀信仰も似たようなものだ。信仰者にとって、阿弥陀仏はいつでも共にいる存在だ。彼らは「南無阿弥陀仏」と唱えるたびに、そのことを思い出す。

 

「同行二人」は自分と空海は共にいるという意味の言葉で、「南無阿弥陀仏」は自分と阿弥陀仏が共にいることを思い出させてくれる言葉。ところが仏教においては「自分」という意識は苦の源だから、そこから去ることを目標とする。「自分と仏様が一緒にいる」と喜んでいるようでは、修行が足りないのだ。

 

でも僕はそれでいいように思う。自分を忘れている時間というのは、存在しなかった時間のように思える。夢中になっていた時間を「あっという間」と言うのはそういうことだろう。何だか時間を味わった気がしない。

 

僕は自分の体調不良を忘れたい。夢中になれば忘れられる。でもしょっちゅう夢中になっていたら、人生の濃度が薄まる気がする。

 

ではどうしたらいいのか、なんて悩む必要はないだろう。そこまで夢中になることなんて、そうあるものではないからだ。

 

しんどくなったら「夢中」に逃げる。存在するだけでつらい日々、そうやってやり過ごしていければと思う。


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