労働は生きるエネルギーを奪う
僕は、ひなたぼっこさえできれば幸せなのだ。
お日様はあたたかい。風は心地よい。空も草花も美しい。食べ物は安価で買える。インターネットには無料の文章や動画があふれている。図書館に行けば無料で無限に本が読める。現代日本はなんて恵まれているんだ。生きることは素晴らしい。
そう思えなくするのが労働だ。労働はあまりにも苦痛だ。まず決められた時間に決められた場所に行かなければならない時点で耐えがたい。仕事がない日でも「明日仕事がある」という思いに苛まれて憂鬱になる。労働は、いついかなる時も、僕の生きるエネルギーを奪う。
人生は楽しいもの。それを阻むのが労働。労働さえせずに済むなら僕は幸せになれる。近頃、以前にも増してそう思うようになった。
2018年4月にポスティングの仕事をやめてから働いていない。働かない日々は楽ではあるが、お金が入ってこない。したがって親にお金を借りて生きている。とても気詰まりであり、申し訳ないとも思う。
この状況を抜け出そうと考えて、求人広告を眺める。そして絶望する。すべての求人に興味がないのだ。仕方がないので「どの仕事ならギリギリ耐えられるか」という基準で選ぼうとする。しかし、そんな思いで仕事を選ぼうとしている自分にやりきれなくなる。生きるエネルギーが奪われていくのを感じる。
「雇われて働く必要はない」などと言って自営を勧める人がよくいる。インターネットに多い。以前は僕も乗せられていたが、最近はどうやら無理であると思うようになった。
僕にはクラウドソーシングも、ポイントサイトも、せどりも苦役だ。「お金のためにしたくもないことをする」という点で、既存の労働と何ら変わりがない。なぜ一部の人はこういうのをニートやひきこもりに勧めるのか。「自分ができたから他人にもできる」とでも思うのか。自分と他人の区別がついていないとしか思えない。
結局、雇われ労働も自営も「お金のためにしたくもないことをする」という点で同じなのだ。むしろ自営のほうがきついようにも思える。雇われ労働は、したくないことであっても、言われたとおりに動けばお金がもらえる。しかし自営はしたくないことをして、なお稼げる保証がない。
そういえば「したいことでお金を稼げ」という助言もよくある。僕のしたいことは「ひなたぼっこ」だ。書いていて笑ってしまった。これではどうしようもない。
もうあきらめて、雇われ労働をするのだ。求人広告を眺めよ。やりたくない度100で埋め尽くされたリストの中から、やりたくない度99の仕事を選んで応募するのだ。
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僕は渋谷ハロウィンを肯定する
僕は渋谷ハロウィンを肯定する。あの無秩序なのがいい。10月31日の渋谷では、ドレスコードが消え失せる。狂った格好が許される。
コスプレ大会とは違う。コスプレ大会は完成度の高さが求められる。渋谷ハロウィンはそうではない。
僕もそれに乗りたいのだ。一度行って、奇妙な格好で歩き回りたい。何しろゾンビや血だらけの仮装者がいる場所だ。あれより奇妙な格好は、しようとしてもできない。
僕は静けさを好む。だからあのような人の多い、騒々しい空間はきつい。でも人が多くて騒がしいからこそ、羽目を外せるのだ。人混みと騒音は、羽目を外すためには不可欠なのだ。
また決して友人・知人とは行かない。そういう者がいては、普段の自分を忘れることができない。
あのクレイジーな群衆の中を、クレイジーな格好をして、一人で歩き回りたい。
僕は渋谷ハロウィンに期待している。人間にはガス抜きが必要だ。でも既存の祭りではガス抜きができない。昔からある祭りは衣装、太鼓の叩き方、山車の引き方、神輿のかつぎ方、踊り方など、全部決まっている。伝統の通りにやらないといけない。
こういう祭りは美しくはあるが、ガス抜き効果は薄い。でも渋谷ハロウィンは違う。好きな格好で歩くだけでいい。普段着でもいい。あの場に行くだけで参加したことになる。そういう祭りはなかなかない(既存の祭りは見物者になれても参加者になるのは難しい)。
渋谷ハロウィン。様々な問題点があって嫌う人も多いが、何とか続いていってほしい。
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女性の美しさ・男性の美しさ
どうも男性というのは美しくないと感じる。
しかも加齢と共にどんどん美しくなくなる。特に中年になると、どうしてここまで美しくないのかと悲しくなる。単に肌に張りがなくなるからか。肥満が増えるからか。なぜ男性は美しくないのか。そしてどんどん美しくなくなるのか。
女性も自然状態では美しくない。髪がボサボサだったり、眉も整えていなかったりすれば、美しくない。けれども、髪と眉さえ整えれば、それなりに美しくなる。僕の感覚では、街で見かけるほとんどの若い女性は美しい。
中年に至ると美しくなくなるのは男性と共通しているが、男性よりはずっとマシであると感じる。街で50歳の男性10人と女性10人を集めれば、まず男性のほうが美しくない。
この差は何なのか。女性は自分を美しく見せる努力をするが、男性は何もしないからではないかと思う。
では男性が美しくなるための努力とは何なのか。髪を伸ばして、アクセサリーを付けて、化粧をすればいいのか。それもいいとは思うが、女性の真似という感じがする。もう少し男性ならではの美しさを求めたい。
筋肉を鍛えるのはどうか。僕は男性の筋肉が美しいとは思えない。むしろ嫌悪感がある。男性的な体つきが嫌なのだ。小さめのTシャツを着て、腕や胸の筋肉を誇示している男性を正視することができない。
僕は男性的なものを前面に出したくないのだ。筋肉を目立たせたくない。男性的な見た目をできるだけ隠したい。だから夏でもできる限り肌を覆っている。どんなに暑くても、人に会う時は七分袖の襟付きシャツだ。
しかしあまりに筋肉がないのも健康に良くない。現在の僕は骨と皮のような体型で、医者からも太ったほうがいい、筋肉をつけたほうがいいと言われている。
健康のために必要な筋肉は鍛えよう。でもあとは何をしたらいいのだろう。
女性が美しくあり続けるのは大変なことに違いない。しかし目指す方向はわかりやすい。女性の美というものの共通認識があるからだ。それが男性にはない。男性が美しさを求めようとすると、手探りで進むしかない。
何だか悲しげな結論に達してしまった。しかしこれは楽しいことかもしれない。決められた美しさに合わせるのではなく、自分好みの美しさを創造していくということなのだから。
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さすらいのひきこもり
僕がよく行くコンビニのイートインは2階にある。店で買った商品を飲食するためのスペースだが、夕方に行くと中高生の自習室みたいになっている。商品を買ったのか買っていないのかはわからない。パソコンをカタカタ打っているスーツ姿の男性もいる。
店員が見回りに来るのを見たことはない。買わないで座っていても注意されることはないだろう。しかしもし注意されたら従わなければいけない。利用者の良識に委ねられている。
ふと考えた。うまい棒1本で粘ることができるのではないか。別にうまい棒を食べたいわけではないが、イートインを使う権利を得るために買う。「コーヒー1杯で2時間粘る」という話はあるが、うまい棒は10円だ。時代は変わった。
続いてスターバックスへ。店の前に椅子が置いてあるが、これはスタバの椅子なのだろうか。商業施設内の店舗のため、買い物に来た客が座ってもいい椅子にも見える。
店員に聞こうとも思ったが、店内はガラガラで、僕が座ることで迷惑がかかる状況とも思えなかったので座らせていただいた。その後は目の前に建つマンション敷地内の腰掛けへ。私有地だと思うが、開かれた道となっているため、住人以外が座ってもいいと思われる。
何だかグレーゾーンの椅子ばかり利用している。街中に無料で座れる場所があまりないのだ。日本は外国と比べて少ないと言われる。訪日外国人が困ることのひとつだそうだ。無料の腰掛けが少ない国・日本。なぜそうなったのだろうか。この点に関しては、低所得者が困るつくりになっている。
最後に駅前広場にある噴水へと向かった。ベンチに座ろうとしたが先客がいたため、近くの石の出っ張りに腰を掛けた。なかなか居心地が良かったが、近くの喫煙所から煙が流れてくるので、タバコ嫌いの僕には少しつらかった。
ひきこもりは体力がない。街に出ても頻繁に休む必要がある。街中の腰掛けから腰掛けへとさまよう。僕はさすらいのひきこもり。
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お金がなくて遠くに行けない劣等感と向き合う
僕はお金を稼ぐことができない。だから遠くに行けない。電車に乗るお金、バスに乗るお金を用意することができないからだ。
徒歩や自転車でも体力があれば遠くまで行ける。でも僕の体は虚弱だし、鍛えたくもない(生きるのに必要な体力は保ちたいが、何十キロも歩けるような肉体に改造したいとは思わない)。
ヒッチハイクという手もあるが、車に酔うし、人と接するのが苦痛なので除外する(車内の人との距離が近すぎて耐えられない)。
僕は自分が遠くに行けないことに劣等感を持っている。これまでの人生で、海外どころか関西より西に行ったことがない。青森より北に行ったことがない。飛行機に乗ったことがない。
一般的に、あちこち移動する人は評価される。
しかし世界の偉人は移動範囲の広さによって尊敬されているわけではない。哲学者のカントは生まれた町から出たことがなかったと言われる。世界中の少なからぬ部族の人々もまた、生まれた地域から出ない。それによって見下されることはない。
陶芸家や刀鍛冶が工房にこもっているからといって馬鹿にされることはない。彼らの評価は、その作品によって決まる。
結局、人は内面や作品で評価されるのだ。近所から出られないからといって、人として劣っていることにはならない。近所でできることをやっていけばいいのだ。
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そして僕は母に叱られるだろう
母が祖母の介護のために帰省している。もう10日ほど経った。今実家にいるのは僕と父だけ。父は外で働いている。洗濯や皿洗いは僕がやっている。料理はせず、米を炊くだけ。おかずは冷蔵庫にあるものを食べている。
父は朝5時に起きて7時に家を出る。帰宅は16時30分。だから7時から16時30分までは家に誰もいない。僕はその間に家事を済ませる。
父と顔を合わせるのが嫌なので、夕方に寝ることにした。父が出かけてから起きたいのだが、さすがに16時30分から7時まで眠るのは難しい。深夜に起きてしまう。
何か食べたくなるが、うちの台所は父の寝ている部屋と接しているので、使うのが難しい。かといって朝7時まで食べないでいるのも厳しい。
外で食べるという手はある。ただしお金がない。そして24時間営業の店は少ない。遠くて行くのがつらい。公園で4~5時間も過ごすのは無理だ。
そういうわけで外出はあきらめ、夜中に台所を使う。やはり父は目を覚ます。でも僕らはもう何年も口を利かない仲だ。父の僕に対する不満は、母を通して僕に伝えられる。しかし今は母がいないから、父の声が僕に届くことはない。
まもなく母が帰ってくる。父は僕の生活リズムの崩壊を母に伝えるだろう。そして僕は母に叱られるだろう。
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運転免許の更新をしてきた
9月19日、運転免許の更新に行ってきた。最寄りの警察署までは自転車で15分ぐらいなのだが、バスで30分ぐらいかけて行った。健康に自信がなかったからだ。
真夏ほどではないにしても、まだまだ日差しが強い。往復30分の自転車走行は危険と判断した。もっと涼しくなってから行ければいいのだが、更新期限が9月20日までなのでやむを得ない。できる限り引き伸ばして、この日に行くことに決めた。
近頃は朝に布団に入って夜に起きる生活なのだが、更新業務は日中にしかやっていない。仕方がないので寝ないで早朝に出かけた。
9時30分頃のバスに乗った。車内は制服を着た女子中学生でいっぱいだった。途中にある市民体育館で何らかのイベントがあるようだった。
乗車時には女子でいっぱいの空間に混じれる喜びで胸が高鳴ったが、乗って5秒で「うるさいし人が多すぎてしんどい。早くみんな降りてくれ」と思った。かつてはこうではなかった。年齢によるものだろうか。
それでも地獄だとは思わなかった。やはり十代の肌は美しい。若いのは良いなと思った。しかし男子中学生を見てもそうは思わない。格好つけようとしてもダメだ。僕はまだ欲にとらわれている。
しんどさと喜びがないまぜになったその中で、髪の毛の観察をした。自分が髪を伸ばすようになってから、女性の見方がかわった。「そうか、そこで縛ればいいのか」「ああいうアレンジもありだな」などと勉強させてもらった。
あと女子中学生の会話の中で「エモいって、得も言われぬってこと?」「エモーショナルってことでしょ」というのがあった。「得も言われぬ」が出てくる女子はなかなか教養があると思って感心した。賢い女子は好きだ。
10時頃、警察署に着いた。窓口で受付を済ませて、視力検査と写真撮影。10時20分から講習が始まった。僕は5年間無事故無違反の優良運転者なので30分の講習で済む(まったく乗らないので事故も違反も起こしようがない)。
死亡事故の再現映像や遺族が登場するビデオを観た。こういうのを観るたびに「車には乗りたくない」「車に乗らずに生きよう」と思う。
10時52分頃に講習は終了。新しい免許証が配布された。変な写真になっていないか不安だったが、まあ見られるものだったので良かった。11時過ぎ、警察署前のバス停から乗車。
今度は終始ガラガラだった。最後部中央の座席を確保。足を投げ出して座ることができた。11時30分頃、自宅近くのバス停で下車。免許更新の旅は終わった。
日差しは強いが木陰は涼しい気候だった。風が心地よかった。久しぶりに見る昼の世界はまぶしかった。
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ひきこもりと大回り乗車
働きたくない。
でも働かないとお金が得られない。お金が得られないと、持っているお金がどんどん減っていく。今お金を持っていても、次にお金が入るあてがないと、できるだけ使いたくないという考えになる。
すると家でひきこもるようになる。外に出るとお金がかかるからだ。近所なら徒歩や自転車で済むが、近所だけで日々を送っていると飽きてくる。たまには珍しい景色を見たいと思うようになる。しかし電車やバスを使うとお金がかかる。それは困る。
お金がなくても遠くに行く方法はある。大回り乗車だ。山手線で隣の駅に行く際、反対周りで行っても一駅分の運賃で済む。この仕組みを拡大して利用すると、一駅分の切符で北関東や房総半島をめぐって帰ってくることができる。僕は実際に何度かやった。またやろうかなと思っている。
ただ最近はそれも難しい。昼夜逆転が悪化しているのだ。昼まで眠れず、起きたら夜の8時ぐらい。出かけようかなと思う頃には深夜で困っている。いっそのこと始発列車で大回り乗車の旅に出ようか。車内ではひたすら寝る。
寝るために電車に乗るのだ。何をバカなことをと思うかもしれないが、家にいると夜まで寝てしまうのだから仕方がない。
寝不足で乗車したことは何度もあるが、ずっと寝続けることはできない。たびたび目が覚める。その際に目に入る車窓は非日常的なものだ。なかなかいいものだと思う。ただ肉体的にはきつい。
それでもやろうと思うのは、昼に活動する人間に戻りたいからだ。
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「あぎるラジオ」がほめられた
「あぎるラジオ」をほめている記事を見つけた。
こないだまでyoutubeで「あぎるラジオ」というのをよく聴いていた。発信者は30代で実家暮らしでほぼ働いていない人(所沢あたりの人らしい)。その孤独なつぶやきが何かシンパシーを感じる心地好さがあったのでめぼしいのはだいたい聴いてしまった。しかし視聴回数はよくて200~300くらいなので、あまり稼げてはいないのだろうと思う。しかしわりと声もいい人だし、youtubeでも他にはあまりないタイプだと思う。
数検2級、一次合格 - 日々備忘録
「あぎるラジオ」というのは、僕のツイキャス放送のことだ。ツイキャスで話した後にYouTubeにアップロードしている。ただの独り言放送で、基本的に音声のみ(だから「ラジオ」と称している)。
文中では声がほめられている。声に関しては、ラジオを始めてから何人かにほめられた。一人や二人ではないので「そうか、自分はいい声なのか」と自信がついた。ほめてくれた皆さん、ありがとう。
インターネット上での放送は2011年からやっている。僕はニコ生主だった。でも声でほめられることはあまりなかった。ニコ生ではアニメや音楽など、趣味について話していた。一方、あぎるラジオは生きづらさを語ることが多い。
僕の声は生きづらい人に響くのかもしれない。元気よくハキハキと話せない。一般的にはマイナス評価を受ける話し方。そこが不適応者には合うのかもしれない。テンションの高い話し方はしんどい。そう感じる不適応者は多そうだ。
内容に関しては、自分では「またつまらぬことを話してしまった」と思うことが多い。あとで聴いてもあまり面白くない。でも何となく聴いてしまう。つまりまあ、そこそこいいんじゃないかと思う。
伝えたいことがあって話しているというより、何となく放送してしまう。運動のために毎日散歩するのだが、ラジオや音楽を聴きながらだと飽きる。ところが話しながら歩くと飽きない。気付いたら2kmぐらい歩いている。
つまるところ、運動の苦しみを楽しみに変えるために放送している。どこまでも個人的な理由だ。そんなラジオだが、昨日(2019年9月5日)チャンネル登録者数が100人になった。チャンネルを開設してから1年7ヶ月。月に約5人ずつ増えている感じだ。
来る日も来る日も視聴者をあまり意識しない独り言。「こんなのでいいんだろうか」と常に思う。でもやめる理由も特に思い浮かばないので、これからも続けていきたい。
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他者の反応に振り回されてしまう
ツイッターの話。
ウケのいいツイートとそうでないツイートがある。僕の場合、生きづらい系のつぶやきは「いいね」が付きやすい。音楽やアニメなど、趣味のものは付きにくい。特に語学・地域・地理などは全然ダメ。
生きづらい系のツイートをしようとすると、ふと「どうせこの手のツイートは『いいね』が付くんだろうな」と思うことがある。そしてその通りになる。何だかむなしくなる。
僕のフォロワーが求めているのは、その手のツイートなのだ。そういうツイートをたくさんすれば承認欲求は満たせる。でもそんな風に考えて「つらい」だの「しんどい」だのとツイートする気にはなれない。
つらいから「つらい」と書く。「しんどい」から「しんどい」と書く。それだけだ。そうでないツイートはしたくない。打算でツイートしたくない。
趣味系のツイートは、ツイートしていて楽しい。でもあまりにも反応がないので心が荒む。「何で僕が好きなこれに誰も興味がないんだ」などと思う。八つ当たりだ。頭ではわかるのだが、そう思ってしまう。
「いいね」が1つも付かなかったツイートは消したくなる。実際によく消している。みっともない失敗ツイートに見えて、情けなくなるのだ。
ツイートとは「つぶやく」ということ。つまり独り言。だから自由に書けばいい。好きなことを好きなようにつぶやけばいい。そうは思うのだが、このように他者の反応に振り回されてしまう。
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