30代で実家ぐらし、働かず家にいる男の日々

1985年生まれの37歳。働かず、友達付き合いもなし。外へ出るのは散歩か病院の時だけ。一人で読んだり書いたりして過ごしている。noteで日記を公開している→https://goo.gl/Jrkznz

「ラブライブ!」パネル撤去は仕方ない

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アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」のパネルが、指摘を受けて撤去される騒動があった。

 

 

私はこの作品のファンだが「この絵はまずい」という立場だ。

 

記事によると、寄せられた指摘は「スカートが透けているように見える」というもの。確かに女性キャラクターのスカートに影が描かれ、股の形が浮かび上がっている。

 

普段はこのような影は描かれていない。その上、スカート丈もここまで短くない。つまりいつも以上に性的なデザインになっている。

 

今回は一般の団体(JAなんすん)とのコラボで、特産品のみかんをPRするために実現した企画だ。ファン向けグッズとは違って、老若男女の目に触れる。性に関わる部分には、いつも以上に慎重になるべきだった。それなのに、よりによって、普段よりも挑戦的な絵を出してしまった。

 

寄せられた批判は、今回の絵がその場にふさわしくないということだ。つまりTPOの問題であって、作品やキャラクターじたいが否定されているわけではない。

 

今の沼津の街を見ればわかる。この作品は沼津が舞台となっている。そのことから、作品と街のコラボが実現しており、市内各所にキャラクターの絵が飾られている。もし作品やキャラクターが受け入れられていないのであれば、こんなことにはなっていない。

 

この騒動を「フェミニスト対オタク」といった見方をしている人がいるが、適切ではない。女性の性を強調した絵を問題視することはフェミニズムの一部だが、そういうものを公共の場にさらすべきではないという考えは、一般的なものだ。

 

だから「一般人対オタク」のほうが近い。しかしこれも不正確だ。オタクがみんな今回の絵を肯定しているわけではない。作品が広く一般に受け入れられることを願うファンにとっては、今回のような騒動は特に避けてほしかった。

 

過去にあった「宇崎ちゃん」献血ポスター騒動も「駅乃みちか」騒動も、TPOの問題だった(これらも「フェミニスト対オタク」ととらえる人が続出して泥仕合になっていた。同じことがくり返されている)。

 

関係者は過去の事例を見て行動してほしい。再び同じことが起きないよう願っている。


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非日常は自分でつくる

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年末年始が苦手だ。

 

人間には非日常が必要といわれる。日常はつらいものだから、ガス抜きが欠かせない。年末年始や祭りなどがそれに当たる。その理屈は理解はできるが、僕には必要ない。

 

年末年始は、何といっても不安なのだ。病院が閉まるのが一番つらい。大きな病気を抱えているわけではないが、体調が悪くなったらどうしようと思ってしまう。ちょっとした体の異変を感じてはおびえている。

 

その上、この期間は多くの人が休みだから、どこへ行っても混雑する。不安で不便で行動しにくい。いいことがない。

 

そもそも日本の正月文化じたいが好きではない。「良いお年を」も「あけましておめでとう」もイヤ。松飾りを見ると憂鬱になる。おせちも雑煮もおいしくない。どこへ行っても琴による「春の海」が流れていてウンザリする。広告やテレビで見かける着物姿の男女もダサい。早く普段着に着替えてほしい。

 

土日祝は仕事が休みだから非日常。そういう人も多いだろう。でも、もし水曜・木曜が休みなら、水曜・木曜が非日常になる。土日祝が非日常なのではなく、休日が非日常なのだ。

 

非日常は他者から与えられるものではない。自分でつくるものだ。普段行かない場所に行くだけでいい。ショッピングモール、レンタルビデオ店、駅の反対側、いつもと逆方向の駅……。普段読まない本を読むだけでも非日常だろう。普段着ない服を着ることも非日常になる。

 

地元の祭りを待ちわびる必要はない。祭りなど、探せばどこでも開催されている。古本市や古着市だって祭りだ。開催は土日祝が多いが、長期間催されているものもある。美術館や博物館の特別展は数ヶ月単位で開かれている。

 

今は江戸時代ではないのだ。村や藩から抜け出せなかった時代には、地元の祭りがガス抜きとして必要だった。今は違う。自転車があれば3キロでも5キロでも移動できる。2300円あれば電車やバスを利用して隣の街まで行ける。普段近所のコンビニぐらいしか行かない人間なら、別の市町村など異世界だ。

 

普段しないことをする。普段行かないところへ行く。非日常は自分でつくれるのだ。他者から与えられる非日常を、僕は必要としない。


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「ペット・サウンズ」は名盤ではない

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アメリカのロックバンド「ビーチ・ボーイズ」のファンだ。高校時代から愛聴している。

 

ただ、どうも僕の評価は一般的なものと違う。評論家もミュージシャンもファンも「ペット・サウンズ」(1966年発表)や「スマイル」(67年発表予定だったが頓挫)を頂点と考えているようだ。雑誌でも映像でも、そのあたりに焦点が当てられる。僕はそうではない。

 

ビーチ・ボーイズは62年にメジャーデビューした。当初はサーフィンや車の歌を歌っていた。基本はロックンロール。多種多様な楽器が「これでもか」と詰め込まれたサウンドも特徴的だったが、とにかくキャッチーだった。親しみやすい音のくり返しだった。

 

僕は高校生の時に「サーフィン・U.S.A.」(63年)や「アイ・ゲット・アラウンド」(64年)を耳にして、もっと聴きたいと思った。そこで調べてみると、どうやら彼らの最高傑作は「ペット・サウンズ」(66年)というアルバムのようだ。それで聴いてみた。

 

何だこれは。乗れないし、心も打たれない。何曲かはいいものの、基本的に退屈。サウンドは凝っているが、そもそも曲が良くない。元が悪ければ、どれだけ装飾を施してもどうにもならない。

 

それでビーチ・ボーイズから離れてしまった。数年後にベスト盤を聴いてファンになるのだが、「ペット・サウンズ」を聴いたばかりに数年遅れてしまった。

 

別にこのアルバムが好きな人がいてもいい。問題はそういう人が多すぎることだ。「ビーチ・ボーイズ=ペット・サウンズ」というレベルになっている。


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「ペット・サウンズ」やその次の「スマイル」(66年~67年)が世間では頂点とされているようだ。でも僕は「迷走」だと思っている。68年の「フレンズ」を聴いた時にはホッとした。変に凝ったサウンドから、シンプルなサウンドに回帰していたからだ。

 

「ペット・サウンズ」「スマイル」以前のビーチ・ボーイズは素晴らしい。これらを経たビーチ・ボーイズも良い(つまり66年と67年だけが良くない)。

 

「フレンズ」の後の「20/20」(69年)も粒ぞろい。「サンフラワー」(70年)などは、これを最高傑作とする人がいてもおかしくない。80年の「キーピン・ザ・サマー・アライヴ」は60年代の黄金期に肩を並べる名盤だと思っている。

 

70年代以降はアルバム単位では弱いが、名曲は多い。「ザ・トレイダー」「カリフォルニア・サーガ/カリフォルニア」「レディ・リンダ」等々。もしこれらの曲を知らないのなら「ビーチ・ボーイズの最高傑作は○○」「ビーチ・ボーイズは『スマイル』で終わった」などと口にする資格はない。

 

くりかえしになるが「ペット・サウンズ」「スマイル」を否定しているわけではない。過大評価されているとは思うが、この記事はそれを唱えるために書いているわけではない。これらを頂点として他を軽んじるような聴かれ方に異議があるのだ。

 

僕は64年の「オール・サマー・ロング」が最高傑作だと思っている。「ガールズ・オン・ザ・ビーチ」(「浜辺の乙女」)など、実に素晴らしい。

オール・サマー・ロング +3

オール・サマー・ロング +3

 

 

これだけ素晴らしいハーモニーがあるのに、どうして彼ら(というかブライアン・ウィルソン)は「ペット・サウンズ」「スマイル」のような奇妙なサウンドに向かっていったのか。いや、それはこの記事のテーマではない。僕はあれらの「迷盤」が最高傑作とされ、前後の「名盤」が軽んじられている現状を嘆いているのだ。

 

「トゥデイ」(65年)でも「サマー・デイズ」(同)でも、「○○(曲名)には『ペット・サウンズ』の萌芽が見られる」といったことを書く人がいる。それではまるで「ペット・サウンズ」以前が助走期間だったみたいではないか。「トゥデイ」も「サマー・デイズ」も、そのままで素晴らしいのだ。

 

とにかく昨今は「ペット・サウンズ」「スマイル」ばかりに光を当て過ぎだ。そういった記事や映像が量産され続けている。この記事を読んだあなたは、世間のビーチ・ボーイズ評を鵜呑みにせず、1枚ずつしっかりと聴いていってもらいたい。

 

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僕は差別に「No」と言う

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どうしても排外的な書き込みが気になる。

 

無視すればいいと言われるが、それは最適な行動なのだろうか。何も言わないことは罪なのではないか。良くないものには「良くない」と発信していくほうがいいと思う。

 

「外国人が嫌い」という感情を発信することに意義はない。外国人のどの点に問題があるのか述べてもらいたい。そうすることで、初めて他者にとって意義のある言葉となる。

 

問題点を具体的に挙げてもらえば、それが人種の問題ではないとわかるだろう。たとえば「○○人はマナーが悪い」という意見が出たとする。この場合、対処すべきはマナーの悪い個人だ。

 

「○○人は嫌いだ」と発信をする人は、それに同調する人間と仲良くなって完結しているのかもしれない。でも嫌いと言われた○○人はどう思うか。あなたは仲間ができて嬉しいかもしれないが、そのために○○人全員を傷つけている。何千万、何億もの人々を傷つけている。

 

あなたがこれまでに出会った日本人は、すべて悪人だったか。それともすべて善人だったか。どちらでもないはずだ。多種多様だっただろう。それはどの国でも同じことだ。

 

「日本に来るな」「国へ帰れ」。こんなことを言っていたら、あなたの味方は日本人だけになる。それも心ある日本人はあなたと距離を置く。あなたの周りには、日本人の排外主義者しかいなくなる。世界中のただ一国、更にその中の少数の人間だけになる。

 

あなたがヘイトスピーチをするほど、あなたの味方は減っていく。生きづらさが増していく。

 

今これを読んでいる人は排外主義者ではないだろう。ただ彼らをネットで見ない日はない。彼らに対する自分なりの意見は持っていたほうがいいように思う。この記事をその一助としてほしい。

 

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一人でいるときこそ、何かとつながっている

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人といると疲れる。

 

自分ばかり話さないよう、相手に話をさせる。興味のある話ばかりではない。「つまらないからやめて」とは言えないから、ジッと話し終わるのを待つ。

 

ようやく言葉が途切れてホッとする。だが「ふーん」で終わらせては失礼だ。そこで興味がないのに質問してしまう。また退屈な話が続く。

 

かと言って、自分ばかり話すのもつらい。途中で話し飽きても「もう嫌になったからやめるね」とは言えない。ウンザリした表情が出ないように努める。人といると、こうした無理を重ねてしまう。

 

そもそも、大きな声で話さないといけないのがつらい。僕がちょうどいいと思う音量では、他人に届かないのだ。いつも小さな声でボソボソとしゃべっていたい。

 

誰かといるより一人がいい。一人でいるときこそ、何かとつながっていると感じる。

 

たとえば空を見上げる。そして遠い国や、既にこの世にない人々に思いを馳せる。こういうことは誰かと一緒にいたらできない。

 

平安貴族が見た、春の夜明けに山の輪郭がだんだん白んでいく様子を、僕らも見ている。

 

枝や草花が風で揺れる。あれは彼らの表情だ。ビュウビュウ、バサバサ鳴るのは、彼らの声だ。

 

植物は自分からは話さない。語りかけると黙って聴いてくれる。

 

いつも誰かといたがる人は、見えるものにこだわりすぎている。金子みすゞではないが、見えぬものでもあるんだよ。

 

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人種問題と自分の幸せの関係

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外国人を排斥する考え方の人がいる。

 

そういう人が、もし外国人に親切にされたり、命を助けられたり、惚れたりしたらどうなるのだろう。中国人や韓国人を憎む人がいるが、見た目では日本人と区別がつかないことが多い。外国人とわかった瞬間に恋も冷めるのだろうか。

 

日常生活で外国人と接することはないのだろうか。100人の外国人と接して100人が意地悪などということはありえない。ということは、排斥論者は単に彼らとの接触が少ないだけではないか。

 

僕も人付き合いの少ない人間ではあるが、大学時代に勉強熱心な韓国人留学生と言葉を交わした。優しい中国人の先生もいた。そんな一人二人を思い浮かべるだけで、排斥思想なんか遠いものとなる。

 

日本人にしたって、優しい日本人もいれば酷い日本人もいる。「○○人は悪い奴」なんて、ひとくくりに考えることは難しい。どうやったらひとくくりに考えられるのかわからない。

 

日本人の凶悪犯の記事ばかり読んで「日本人は悪い奴ばかりだ」なんて言っている人がいたら笑ってしまう。でも外国人に対してそれをやる人間がいる。中国人や韓国人による迷惑行為や犯罪行為についての記事は人気が高い。彼ら全員が悪人であるかのようなコメントが次々に書かれ、賛同者が群がる(反対する者はかなり少ない)。

 

もし自分をいじめる日本人と、助けようとする外国人がいたら、外国人のほうに逃げないだろうか。それでも日本人だけにこだわり、いじめる人間に向かっていくのだろうか。

 

この手のことをツイッターで書いても反応は薄い。人気のない話題なのだ。一人で戦っている感じがして寂しい。世界中のいろいろな国の人々と仲良くなるシーンを思い浮かべて自分を慰めている。

 

そうは言っても、僕は別に「外国人差別反対運動」みたいなのはやりたくない。特別に外国人を好んでいるわけでもない。ただ穏やかに生きていきたいだけだ。好戦的な人間が外国人であれば嫌うだろう。自分にとって心地よい人間と接していきたいだけだ。

 

博愛思想なんて持ち合わせていない。でも「自分の幸せ」を突き詰めていけば、それに近づくものではないだろうか。どんな人種であろうと、どの国の人であろうと、その人と一緒にいるのが楽しければ、その人と一緒にいたいと思う。

 

好きな人と一緒にいたい。それだけの話だ。思想も何もない。

 

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ひきこもりはクリエイターや商人になろう

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2019年の「あぎるラジオ」をねぎらってほしい。

 

そんな企画をpolcaで開始した。おひねり募集企画だ(2020年1月10日頃まで実施している)。

 

「あぎるラジオ」というのは文字通り僕のラジオ。このブログと同じように、社会不適応者の思いを音声で公開している。だから「ボイスブログ」と言ってもいい。

 

ラジオはYouTubeに投稿しているが、広告収益は一切ない。広告はチャンネル登録者が1000人以上いないと貼れないのだ。僕のチャンネルの登録者は120人ぐらいなので、遠く及ばない。

 

***

 

「お金を恵んでください」だと物乞い行為と見られ、違法性さえ帯びてしまうが、作品を公開して「面白ければおひねりを」であれば商売になる。大道芸人やストリートミュージシャンと同じだ。

 

一般的な労働ができないひきこもりは、こういうのをやってみるといいと思う。たとえ1円ももらえなくても、作品を世に示してお金を稼ごうとする行為は商売だ。あなたは商売をした。立派な就労であり、社会参加である。あなたはもうニートでもひきこもりでもない。

 

別にニートでもひきこもりでもいいのだが、それらであることに引け目を感じるのであれば、脱したほうがいいだろう。そのためには「商売」を始めるといい。雇われて働くことは応募から退職まで苦痛しかないが、作品作りは楽しい。

 

だいたい身分や職業なんて自称でいいのだ。公的には違うのだろうが、ほとんどの場合はでっちあげることができる。読み終えた本をネットで販売すれば「ネットで商売しています」と言える。利益が1円でもあるのなら、赤字の商売人よりは利益を出している。

 

メルカリやヤフオクで出品したら商人。ネットに動画でも文章でも絵でも投稿すればクリエイター。「自称クリエイター(笑)」などとバカにされるだろうが、クリエイトしている人なのだから、どこにも嘘はない。自己満足でいいのだ。

 

生活費を稼ぐとか稼がないとかいうのはまた別の話。僕がここで言いたいのは肩書きの話だ。ひきこもりはクリエイターや商人になろう。

 

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都会のひきこもり・田舎のひきこもり

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ひきこもりは都会のほうが暮らしやすいと言われる。人が多くて、多数派から外れた人間が目立たないからだ。

 

田舎のひきこもりはつらい。なぜなら近隣住民に陰口を叩かれるから。そんな話を聞く。しかし田舎ならではのメリットもある。親が車を持っているということだ。その車を借りて遠くに出かけることができる。

 

車はそれじたいが居場所になる。田舎には広い駐車場があるから、そこにとめて長居できる。そして遠くのショッピングモールにも行ける。ショッピングモールには一日中いても注意されない。フードコートはだいたい居心地がいい。

 

一方、都会では親が車を持っていないことも多いため、お金のないひきこもりの移動手段は徒歩と自転車だけになる。

 

「自転車なら5kmでも6kmでも移動できるじゃないか」と考える人もいるかもしれない。でもそんな元気な人間はあまりひきこもりにならない。こうして都会のひきこもりの生活圏は半径2kmぐらいになる。移動しないで済むのは楽ではあるが、何と言っても飽きる。都会に憧れる田舎のひきこもりは多いだろうが、こういう現実もある。

 

ひきこもりは住む場所を選べない。お金を稼げないから、だいたいは実家で生きていくしかない。都会に実家があれば都会暮らしになるし、田舎に実家があれば田舎暮らしになる。

 

都会のひきこもりは図書館や公民館や公園を転々としよう。転々とできる選択肢を持っていることが都会在住者の強みだ。田舎のひきこもりは車とショッピングモールをうまく利用して生き延びよう。

 

***

 

【polca企画実施中(2019年12月~2020年1月)】

 

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スカートを穿きたい男性の思い

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スカートを穿いて生活したい。

 

街でスカートの女性を見かけるたびにうらやましくなってしまう(特に丈の長いヒラヒラ・フワフワしたものにときめく)。でも僕は男性で、男性はスカートを穿かないことになっている。だから僕がスカートを穿いて生活することは難しい。

 

スカートを穿いて生活することは可能だ。警察に捕まることもない。ただ変人扱いされることは避けられない。衣服の股が分かれているかいないかで人生が変わってしまう。女性はズボンかスカートか、気分によって決められるのに。

 

以前、スカート姿で授業をする大学教授が話題になった。男性がスカートを穿いて働くだけでニュースになってしまうのだ。

 

***

 

僕は自分の部屋でスカートを穿く。ズボンからスカートに着替えると、解放されたと感じる。穏やかな気持ちになる。スカートは激しい動きに向いていない衣服なので、攻撃性が抑制されるのかもしれない。

 

スカートを穿くと心が静まっていく。優しい気持ちになっていく。そしてそういう自分自身が愛おしくなっていく。スカートを穿くと幸せな気持ちになる。

 

しかしその姿で外に出れば、幸せは吹き飛んでしまうだろう。散歩に出かけても、周囲の目を気にしてしまって、景色を楽しむどころではなくなるはずだ。

 

子供に「わー、あのおじさんスカート穿いてる~!」と叫ばれたり、大人にひそひそ話をされたりする覚悟は決めないといけない。仮に誰も気にしていなくても、自分が気にしてしまう。スカートを穿くことで大きな喜びを得られるだろうが、その代償も大きい。

 

僕は今、実家暮らしだ。姉も近所に住んでいる。彼らの前でスカート生活をすることは、僕にはできない。また僕の住む街は郊外だ。変人が少ない。この街でスカートを穿いて暮らしたら、たちまち有名人になってしまう。

 

僕は心も環境も、穏やかであることを好む。だからこそスカートが感じさせてくれる優しさに憧れるのだ。ところが僕は男性で、男性がスカートを穿いて生活したら、心も周囲も騒がしくなってしまう。

 

でも僕は、いつかはやらねばならぬと思っている。何だか戦いのようになってしまうのは不本意だが、この社会で、男性がスカートを穿いて生きようとすれば、それを免れることはできない。

 

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異性と付き合うということがわからない

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異性と付き合うということがわからない。

 

異性と仲良くなどなりようがないではないか。人は同性同士で固まるものだ。どこで何があったら異性と仲良くなるのか。

 

異性と話すことはある。でもそこから仲が深まる過程がわからない。普通、その場で話して終わりだろう。学校でも会社でも、何らかの集まりでもそうだ。街で見かけるカップルや夫婦というのは、いったいなぜあんなことになっているのか。

 

どこかで話す機会があって「今度食事でもしませんか」と誘うのだろうか。よくそんなことができるものだ。僕には違法行為をするぐらいの抵抗がある。

 

しかも誘う際には、相手に恋人や配偶者がいないかどうか気にしないといけない。もしいた場合、一対一になるようなことがあってはならない。同性ならこんなことはまったく気にしなくていいのに。

 

誰であっても気を使いすぎてつらくなってしまうのに、異性となると更に気を使わねばならない。これで仲良くなるなんて至難の業だ。自分の能力を超えている。

 

とはいえ、別に克服すべきとは思わない。一対一でなければ普通に談笑できるのだから、それで特に問題ないと思う。

 

何だか引っかかってしまうのは「異性と交際したことのない人間は劣っている」という価値観がこの社会にあるからだろう。逃れるのは難しい。

 

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